礼拝会の使徒職の変遷 ~「礼拝会の教育学」より~
修道会の歴史・社会教育学の生きた歴史
礼拝会の歴史は、介入の中心に女性を据える様な教育学的路線の中でも又、説明されています。
私たちは、修道会の教育学的発展の歴史的研究を行おうとしているのではありません。それは文書や歴史的記述の分析が必要となりこの本の目的ではないからです。しかし私たちはこの修道会の歴史のいくつかの際立っている時期を強調したいのです。
その実践の発展は、各時代の政治的、社会的コンテキストや女性のニーズ、カリスマへの忠実さや解釈と関係があると思います。修道会の歴史は、良い度合いに、教育学の発展や直近の社会的な仕事を映し出しており、女性に機会が平等に与えられるように働く事や、権利を主張するために、福祉的切り口の実践を行う事からゆっくりと遠ざかっています。
この創立者によって始められた、直観的で実用主義的な奉仕の教育学は、3つの大きな時代を経てきたと思います。
一番目は、マリア・ミカエラによる修道会のはじまりと最初の創立と20世紀のはじめまでです。第二は60年代までの修道会の拡がりと強化の時期です。そして最後はカリスマと関係する教育学的な挑戦と革新の時代です。それは全盛期の70年代から現在に至るまでです。
○最初の創立のための起源から:女性のための革新的な挑戦
19世紀には、主に病人や貧しい人、子どもたちなどの疎外の状況に生きている人々への福祉や教育に献身する女子修道会が沢山創立されました。公的な制度の不足の時代で、女子修道会がシェルター、病院、愛の家を通して社会的役割を果たしていたことは不思議なことではありません。主に福祉的な法制度の不足のときに不可欠な仕事をしていました。
しかしながら、必要性は多かったのですが、疎外の状況にある女性たちにとっては非常にわずかな機会しかありませんでした。貧困のサイクルから離れることは難しかったけれども女子修道会は、貧しさから出るために唯一のチャンスでした。そしてある場合には、女性への差別を告発するための唯一の社会的手段だったのです。
この修道会の創立は驚くほどに早く、もし1845年に最初のシェルターが開かれたことを考慮に入れるならば、その時ミカエラはまだライカ・コンプロメティーダ(コミットメントした協働者)でした。
霊的成熟、同伴、そしてマドリッドでの女性の家を皮切りに、数年後にはもう、ミカエラはひとつの修道会や他の寮の創立による事業の拡大を考えていました。1856年にイサベル2世によってスペインに他の事業体の創立が認可され、マリア・ミカエラがそれらの総責任者として任命されました。その同じ年にミカエラは、スペイン中の司教へ一通の回状を書き、新しい女子修道会の事業を説明し、当時既に何人かの若者が寮での生活スタイルに加わっていました。1858年に教区の認可がおり、最終的に1861年にピオ9世が「聖体と愛徳のはしため礼拝修道女会」を認可しました。
マリア・ミカエラはコレラで1865年に亡くなり、その時代にマドリッド、サラゴサ、バレンシア、バルセロナ、ブルゴス、ピント、サンタンデールに寮が開かれました。社会事業の専門的な活動によっては特徴づける事の出来ない時代としての扱いになりますが、スペインにおける刷新であり、売春の中にいる女性たちのための事業のはじまりとみなすことが出来ます。
同じように、専門性やマリア・ミカエラがふさわしいとした、教育的戦略としての解放や職業的社会復帰の重要性も欠如した時代という意外な結果になります。私たちは、この時代は後で現代社会的教育学に変わる過渡期とみなす事が出来るでしょう。
○強化期間:寄宿制度の黄金期
20世紀のはじめは、学校の教育学が主流で、教育学の刷新の動きは、伝統的な詰め込み主義的な教育学を危機へと陥れました。つまり活動、参加、対話といった方法で、意味のある学習を強化しようとしていたのです。
社会教育学や社会事業は学問分野として存在しておらず、学校の教育学が社会復帰の道具としての唯一の教育的参考資料でした。
しかし学校を刷新する力が社会事業に到達するにはもっと時間がかかっていました。その時代の社会政策は、権利の増進よりも援助によって特徴づけられます。更に言えば、衛生学の論理は貧しい人や精神病患者、特に売春の背景を持つ女性たちへの非難となっていたのでした。数年後、20世紀の戦争や数々の対立によって引き起こされた人間的社会的ドラマの中の震えるほどの怒りの詰まった時代が、現代の社会教育学の芽を出させるのでしょう。それが社会教育学や社会事業の専門化の始まりです。
20世紀のはじめに修道会は強化され、スペイン各地への創立が続き、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、アジア、アフリカといった諸国への創立をもって拡大する時代が始まります。この時代と20世紀の半ばまで修道会はその教育学的関心の対象を、売春の状況にある女性に加えて、様々な脆弱な状況にある女性たち、例えば、貧困、文盲、十代の妊娠、家族の遺棄、消費主義などにまで拡大してきました。シェルターは大多数が女性のためで、寮生活によってその効力を拡大していき、作業所によって専門教育を続けていました。その時代には、教育分野の仕事が始まり、修道会が存在する様々な地域に学校を開きました。その時代から、礼拝修道女は異なった二つの路線を強化していきました。それは疎外のコンテキストにある女性たちの環境を改善するための社会事業と、修道会が存在する様々な国で学校教育の普及を促進する教育事業でした。マリア・ミカエラを起源に持つ一方の路線では女性たちの養成が進められました。なぜならば教育の機会の不足が疎外の主な原因だったからです。
この時代に、寮生のために配慮され、その多様な現実に対応するためにいくつかの教育学の修正がなされました。それは作業所の専門性と多様性、専門学校、若者たちのためのシェルターと寮の構造の拡張です。
○公会議から現実へ:コミットメントされた変革
第二バチカン公会議はヨハネ13世によって、教会や修道会のための、大きなスタート、見直し、危機の分析の時と想定していました。宗教的な多くの秩序のためのコミットメントの刷新やカリスマの見直しの時でした。又教育学的実践のレベルで礼拝修道女は女性に関する事業の在り方の徹底的な刷新をはじめました。心にかけている女性たちの多様性や問題は、シスターたちに統合的で現実的な仕事をすることを許しませんでした。寮の仕事は当時の女性たちの前進のために十分とは感じられませんでした。70年代の社会は変化し、社会復帰の形はより専門的で総合的な配慮が要求されていたのです。寄宿制度ではなく小さなグループのダイナミズムによって働く事が必要とされてきたのです。
修道会のアイデンティティに関連して、礼拝修道女はカリスマの深い分析と直近の歴史の見直しを始めました。十分な内省の後に、修道会は大きな真心でもって創立のカリスマの起源を再開することを決定しました。それは売春の状況にある女性たちのための仕事です。その時から、内省とカリスマの深めに関する養成プランを組み立てようとしたのです。その事業は、心を込めて売春や他の疎外の状況に関する仕事を再開するために、ゆっくりと変容していくプロセスです。
その後の数年も易しい歩みではありませんでした。変容は、刷新のヴィジョンや時代のニーズそして女性への介入の仕事にとって大切な感受性のために、ゆっくりと進んでいました。いくつかの教育学的刷新の中で、礼拝会のやり方で女性たちの現実に近づく事、時代遅れのまま残されたいくつかの事業を閉鎖し、より家族的な形で女性たちと共に生きるためにより小さな共同体を開いていった事を私たちは強調します。薬物使用の問題を抱える女性たちのための事業を継続しました。通りでの仕事のスタイルと小さな共同体が時代の社会教育学にとっての刷新となりました。
同じ時期に、シスターたちは社会事業、心理学、社会教育学の養成と専門化のプロセスを実現してきました。女性に関する事業所では、専門グループが強化されました。80、90年代は更なる専門化の時代でした。それは、疎外の状況における社会事業のための手段や公的政策の発展と相まっていました。女性に関する仕事の中にジェンダーや人権の視点を組み込むために、福祉的性格の視点を放棄していきました。
21世紀のはじめからは、他の人権擁護、女性、移民の団体とネットワークで働いていったことが強調できます。チームの中では、国内の地域においても、国際的なフォーラムや特別な会議においても、感化と啓発を強化していきました。最後の数年には、社会的介入と政策的事業は、女性たちが十分な権利を持った市民になっていくために、被害者である事から抜け出すという方向性に向かいました。
「 礼拝会の教育学 第2章より」